聞き手の理解・解釈の歪み

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情報の伝達およびコミュニケーションは、話し手と聞き手の双方が互いに意識を向け合うことで、クオリティの高い意思疎通が可能となります。

話す側には、発信の内容や意図を正確に伝えるための「工夫」が必要ですが、聞く側においても、相手の意図を正しく汲み取る能力や、話の本質を理解しようとする姿勢が欠かせません。

「伝え方」と「解釈の仕方」の両方が高い水準で機能してこそ、スムーズかつ的確なやり取りが成立するものだと、私は考えています。

ところが現代社会を見渡すと、こうしたバランスが著しく損なわれているのが現実です。

話がうまく伝わらないとき、その原因の大半は、話し手の「言い方」や「言葉の選び方」などにあるとされますが、聞き手の「解釈」が問題として挙げられることは、なぜかほとんどありません。

特にここ最近では、聞き手が話の文脈を汲み取ろうとせず、表面的な言葉じりだけを捉えた、極めて「低コンテクスト」な解釈をする人が目立ってきているようにも思います。

話し手の至らなさばかりが強調され、聞き手の理解力の乏しさや解釈の仕方、洞察力の欠如などが論点となる場面はそこまで多くないという現状に、私は強い疑問を抱かずにはいられません。

むしろ私は、話し手の至らなさ以上に、聞き手の「物事の捉え方」に問題があると感じています。

相手が何を伝えようとしているのかを汲み取ろうとし、的確に物事を捉えられる人は、相手の言葉を断片的に切り取ったり、不十分な理解をもとに反論することはありません。

理解が浅い・難しいと感じたときには、追加の情報や説明を求めるのが当然ですが、それをせずに「相手に非を押し付ける」というのは、聞き手の理解や洞察が足りていないということの表れではないでしょうか。

さらに現代社会において、私がもう一つ問題視しているのは「歪んだ解釈」の広がりです。

話し手がまったく意図していないことを、聞き手の勝手な憶測で解釈し、本質とはズレた捉え方をする光景を、私は何度も見てきました。

とりわけ今の日本では「察する文化」のデメリットが曲解を生み、ネガティブな受け止め方をする人が多く存在することに、深い懸念を抱きます。

また、議論や意見交換の場で、何かを問いかけられた時に「詰問を受けている」という捉え方をする人も、しばしば見られます。(反省会ではない)

本来であれば、その時点での「事実」を述べ、それに基づいた今後の指針や対策を話し合えば良いだけのはずなのに、それまでの自分の行いを正当化しようとして、言い訳じみた発言になる。(聞いてもいないことや論点のズレた発言をして、相手を不快にさせる)

こちらも「解釈の歪み」の典型例であり、責められているかのような「誤った受け止め方」をしないよう、聞き手は常に意識する必要があります。

その場に適した発言や、会話のキャッチボールをするためには、ピントの合った解釈が欠かせませんからね。

解釈の不足と解釈の歪み。

こうした課題に対する理解を深め、解釈の力を高めていくことが、質の高い情報の伝達やコミュニケーションを築き上げる鍵となります。

もちろん、話し手に問題がある場合もありますので、すべてを聞き手の解釈のせいにするつもりはありません。

このことはまさに、この記事の本質でもありますので、私の意図を的確に汲み取り、より良い解釈へとつなげていただければ嬉しく思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この記事を書いた人
H.M

幅広い視野と深い思考力を発揮し、あらゆる課題や物事に対して冷静かつ論理的にアプローチすることを心掛けています。また、洞察力を活かして本質を見抜き、多角的な視点で分析をすることも得意です。

少年時代に習っていた『サッカー』を通じて培った思考や理論は、社会での経験と融合し、現在のスタイルを確立する基盤となりました。

私にとって仕事とは、競技そのものであり、『選手究極論』という名の独自の理論を掲げながら、日々さまざまなことに挑戦し続けています。

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